出土状態の秘密

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擦文文化 北海道サクシュコトニ川遺跡

北海道大学構内より、テシのあとが見つかった。


テシとは、アイヌ語で堰のような漁業用施設で、溯上する魚類を魚罠に誘導する杭の列のことらしい。

でも素人目からしたら、ただ木材が乱雑に堆積している写真にしか見えないので、テシの絵ものせてみました。


絵と比較すると、写真は垣網に相当する部分だろうか。

写真を用意できなかったが、この遺跡から見つかったテシは、川上に向かって八の字に杭が並んでいたというから、魚罠は「八の字杭列」より上部に築かれたのだろう。

北海道では縄文時代の遺跡からも、テシやエリが見つかったという。

北海道 紅葉山49号遺跡 簗

日本の国土は深く掘りすすめると火山灰の層が顔を出す。

火山灰は骨・木を分解してしまうため、石器以外はほぼ残らない。

テシやエリは、木材が分解しづらい環境に密封されていたため、発見に至った非常に幸運な事例だったと言える。

こうした遺跡は木製品の残りもいい。



ちなみにここからは道内最古といわれる「文字の刻まれた土器片」もみつかっている。


「夫」に横棒を一本加えたような字。

学者さんはこれを蝦夷(エゾ)の「夷」の異体文字と語る。

書き順は、重なり具合から「三」を書いて後「人」を書いたように見える。

なんとなくパソコンのIMEパッドで手書き検索をしてみたら、夷以外に、吏・表・奉・責なども候補に挙がった。

あなたにはこの字は何に見えるだろうか?




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古墳時代・奈良時代 岩手県高瀬T遺跡

いわゆる末期古墳と住居阿他が見つかっている。


円墳は、調査以前の開発などにより墳丘や墓穴は消滅した。


古墳の周りをめぐる濠は馬蹄形で、完全に周囲をかこんでいないタイプである。

2号墳の濠からは鉄器と土器が出土している。


土師器


2号墳から出土した須恵器

この遺跡の特徴は、古墳と住居の配置。

古墳と住居はそれぞれ離れた場所につくられるのが普通なのだが、なぜかここでは古墳のそばに奈良時代の竪穴住居跡が発見されている。

またほとんどの住居は焼却された跡があったという。

住居の主と古墳の被葬者はどのような関係があったか?

なぜ古墳の近くに家を構えることを決意したのか?

なぜ焼却されたのか?

附近から発見されている同時代の遺跡の状態と比較し、この遺跡の特殊性をすべてあぶりだす必要があるだろう。

争いの結果か、住居廃絶の痕跡か。

結論を出す前にやれることはまだあるはず。



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弥生時代 群馬県有馬遺跡

弥生時代の農耕は水田ばかりでなく、畑作もやっていたらしい。


でもこの写真を見たとき、これのどこが畑?と思ったが、どうも↓これをイメージするとわかりやすいと言われた。

 
なるほど、溝はひとが入って作物を世話する空間で、その間が苗を植えるもっこりに相当すると。

いまの畑と内容はほぼ同じだったらしい。

ということは、これに至るまでに試行錯誤をしたと思われる遺跡も、まだどこかに眠っているのかもしれない。

自分が知らないだけで、すでに見つかっているかもしれないが…。

水田はコメを育てるものとの見方は一般的だが、畑では何を育てていたのだろうか?

米を主食としていたと考えられる弥生人。

でも、水田にたよらず畑作を中心としていた地域では、米以外の食べ物が主食だった、という解釈も可能かもしれない。

なお、米は畑でも育つ。実家の農家では陸稲(おかぼ)と呼んでいた。

いま陸稲を栽培しているところはほとんどないだろうなあ。



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縄文時代 岩手県水神遺跡

縄文時代は狩猟採集社会であった。

でも自分から狩猟をするだけでなく、落とし穴を掘って動物を捕獲したらしい痕跡もみつかっている。

この落とし穴をTピットと呼ぶ人もいる。


Tは、トラップのことを指すと教えられた。

はじめてっきり断面がTの字だからと思っていたが、どうも違うようだ。

だいたい同じ幅で掘り下げていたが、年月と共に上部の壁は崩れたため、上は大きく口の開いた形に変化し、埋没していったんだとか。

でも初めから上部を大きく掘っていたと思われるものもみつかっているそうで、形態は一様ではないようだ。

さて、写真を見てお分かりいただけるだろうか。


中央の沢を挟んで東西一列に並んで造られた落とし穴の一群が。

水を求めて沢に近づいた動物を狙ったのだろうか。

それともここが動物の群が通り道としているのを知っていて、並べてほったのだろうか?

こうした知恵は、野生で長く暮らすことによって学べる。

都会暮らしになれた人間とは縁遠い話である。



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落とし穴 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
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旧石器時代 大阪府はさみ山遺跡

今から30年ほど前、楽天梨田監督の住宅予定地から旧石器時代の遺跡が発見された。

石器だけでなく、建物跡と思われる痕跡もみつかるという幸運に恵まれた。

径6メートル、深さ20センチほどの浅い円形に掘られて、周囲に径10センチほどの穴が掘られていた。

穴は斜めに掘られており、木を差し込むと上部中央で重なるようになっていた。

穴は浅く掘られ、縄文時代のような柱を立てる感覚ではなかったようだ。

たてる状況を復原した絵も描かれた。


昔佐原真という人が、絵を描く達人であったと聞いたがこれも佐原さんだろうか?

それにしても、木を一本ずつ安定することのない浅く掘った穴に立て、最後に中央で束ねる作業を本当にしていたのかどうか?

言うのは簡単だが、実際やってみると難しい。

浅い穴に、ななめに木を立てても木は倒れてしまう。
それをどうクリアしたか?

旧石器時代の建築技術、甘く見てはいけない。

ちなみに遺跡は、梨田家の設計変更により、土中に埋まった状態で保存されているらしい。

建物跡のみつかったあたりは「はさみ山遺跡梨田地点」と名付けられている。

旧石器人もこの扱いに感謝しているのか、梨田さんは引退した後も野球界で仕事を続けている。



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オホーツク文化 骨塚

オホーツク文化の住居からは、動物の骨を集積した「骨塚」と呼ばれるものがみつかる。

トコロチャシ遺跡の骨塚

栄浦第二遺跡の骨塚


復元された骨塚


写真や図面を観察すると、頭骨を丁寧に並べているように見える。
動物はクマ、シカ、キツネなど陸上で生息する動物のほか、トドやクジラなど海獣の頭骨もあるらしい。
家畜として飼育していたと思われる、ブタ・犬の骨はあまり多くないとのこと。
頭骨を丁寧に並べているので、骨を集める趣味があったわけではなさそうだ。

丁寧に扱うという点から、食糧の対象とは違う、別の考えがあったようだが、それは何か?
縄文時代の配石遺構や石棒と同じく、世界観を読み解くのは難しい。
住居にある点から、昔の家によくあった神棚、仏壇などの感覚で存在したのだろうか。

骨は肉のついた状態で置いたのではなく、一度地中に埋め、骨だけになったら掘り返して家に搬入したと考えるのが自然だろう。
衛生的にも悪いし…。

縄文時代にも、遺体を埋めて、骨のみとなった時期に掘り返し再び埋葬した二次埋葬がある。
骨塚はそれに相当する行為である。
単なる食糧の対象と考えていたらここまではやらない。

アイヌ民族の送りのごとく、動物に対し尊崇の気持ちが表れている。

ちなみに、この骨塚は住居が使われている間につくられたのか、それとも廃絶時につくられたのか?
ちょっとわからない。

それによって、彼等の世界観の解釈もかわるだろう。



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古墳時代 岩手県上餅田遺跡

ここから検出されている住居のプランは、方形、四点の柱穴、かまど。
古墳時代にはよく見られる例なのでそう珍しくはない。




発掘調査の範囲からは、古墳時代から平安時代にいたる竪穴住居跡が見つかっている。
古墳時代 半弧状に配置。
奈良時代1 北に密集。みんな何となく同じ方向を向いている。
奈良時代2と平安時代 南へ移動。



不思議なことに全く重複しているように見えない。
他の同時代の遺跡では、重複例はいくつも見ているので、この光景は不気味に映ってしまう。
完全に埋没していなかったから、こうした奇跡がおきたのだろうか?

それとも重複は、避けなければならないタブーだったのだろうか?

三河地方のとある地域では、死人の出た家のそばに家を作らないという習慣があった、と聞いたことがある。

その習慣は古墳時代までさかのぼる、わけないか…。



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弥生時代 福岡県立岩運動場遺跡(ちょっと閲覧注意)


甕棺墓から男性の人骨が見つかった。
埋葬方法は膝を曲げる屈葬にみえるが、蹲踞の姿勢にも見える。

右手に、ゴホウラという貝殻でつくった腕輪を14個もはめていた。
ゴホウラは奄美大島より南東の海で採取できる。
遺跡から直線距離で400キロ以上も離れている。
この人物に特殊性を感じている学者は多いという。
彼は何者か、永遠にわからないだろう。

脚の位置は埋葬にかかわった人がやったのだろう。
無造作にやってこうなることはまずない。
貴重な貝の腕輪をたくさんはめていた彼は、死後大きい甕棺をつくられ、埋葬された。
おそらく、当時としては厚葬の扱いになると思う。

でも数千年後、まさか自分がこんなかたちで世間にさらされるとは思っていなかっただろう。
自分だったら嫌だ。
彼に同情する。



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縄文時代 敷石建物跡

埼玉県樋下遺跡


長野県平石遺跡


縄文時代の関東・中部地方の遺跡から、敷石住居と呼ばれている建物跡が多数見つかっている。
名前の通り住居の床に石を敷き詰めている。
初めに柄鏡の縦穴を掘り、床と柄の部分には平べったい石を敷き詰めたようだ。
中央には炉がもうけられており、これは縄文時代の住居と同じである。
柱穴は竪穴の外に掘られている。

今まで見てきた竪穴住居の柱穴は、内部から見つかる場合が多いので、屋根など上に覆いかぶさっていたものが、一般の住居とは違っていた可能性もあるだろう。

ちなみに柄鏡の竪穴は、北海道の続縄文時代にも見られた。
柄の内部に柱穴が見つかっているが、敷石住居の場合は外側から見つかっている。
竪穴のなかに柱をたてるのがタブーだったのだろうか?

樋下遺跡では、炉附近からは石棒が見つかっている。
平石遺跡の炉付近からも動物を描いた土器が検出されている。
石棒は、石で作られた狩猟具とは違う道具。
絵の描かれた土器は、今まで見たことはあるけれども数は少ない。
煮炊きに使う土器といっしょにみていいのだろうか?

そもそもこの住居をつくった人達は何を考えて、行動したのだろうか?

完成する間に大きめの石を多く集めなければならないし、柱穴の位置や石の配置など、建物のつくりも特殊だから、それを建てるための知識を持った人間は現場に必要だろう。

一人でなく、複数の人が同じ考えをもって行動していた…
その原動力はなんだったかというと、解釈は難しいと思う。

神殿か?偉い人の住居か?

炉の付近で、石棒や特殊な土器が出土しているいるので、火にかかわる祭りでもやっていたんじゃないの、とも思えるが…

考古学者が結論を出せていない状態のなか、みたこともない事例が姿を現した。
2014年東京都緑川東遺跡で、床下から石棒4本検出した敷石住居が見つかった。


人によっては、炉はないので住居じゃないよという。
前代未聞の発見のため、考古学者の間で解釈が割れているらしい。
でも、敷石住居の特殊性を改めて認識させるだけの効果はあった。
石棒は、石を細長い状態に加工し、全体を磨き上げてつくる。
膨大な労力を必要とするものをなぜ、4本まとめて住居ともども廃棄することになったのか?

特殊な建物から見つかっているから、実はここが石棒を保管する場所だったと考えたらだめだろうか?

獅子舞は普段別の場所に保管し、祭りの時に表に登場し大活躍する。



この建物は建築当初から石棒など祭りの道具の保管場所という機能を考えていたから、炉を省略した…

でも裏付け作業はヤラナイ。メンドイ。

ちなみに、敷石住居ばかり見つかっている遺跡もある。

特殊特殊といっても、どこまで特殊だったのか?
これはもう遺跡を残した人にしかわからない。


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旧石器時代 北海道増田遺跡


昔、遺跡を覆う土砂について次の話を聞いたことがある。


旧石器時代は火山の噴火が絶えず、地域によっては火山灰が1メートル以上堆積した痕跡が認められている。

だから、石器は火山灰の地層から出土する。

その次の縄文時代以降は、火山活動は活発ではなく樹木は生い茂っていた。

だから土器・石器などは黒色の土層から出土するし、旧石器時代の遺跡は、縄文時代の地層よりも深い位置から出土する。


でも、ここの遺跡のように土砂の堆積が、きわめて浅いところからみつかる場合もある。

メカニズムは門外漢だからわからない。


遺跡は、風通しの良い山間部にある。

山登りをしたことのある人なら経験があると思う。

平野とくらべ、威力の強い風に当たっていたから土砂の堆積は遅かったか?


仮にここで耕作作業を行っていたら、石器はたちまち地表に巻き上げられてしまい、出土状態の確認どころではなくなる。

…といっても、遺跡の発見というのは、未開発の土地で偶然みつかる場合がほとんどだけれども。


北海道白滝の赤石山(黒曜石の露頭のある)附近を歩いていたら、偶然石器を見つけることがある。


個人で収集している人もいるだろう。

そうした人の一部が、考古学者という誤った道にはまり込んでしまう。

周りにいる人は、最近様子はおかしくないか、挨拶の声掛け、注意が必要だ。




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石器 | コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
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soraイメージ
注意!
非常にマニアックなブログです。
タモリ倶楽部でもやりません。
旧石器とか縄文など、教科書で習うけど、ほとんどの人は興味なく、聞き流すだけで終わると思います。遺跡に行っても、だいたいは看板があるだけ。古墳は草木が生い茂っている山にしか見えない。面白いのは、ものが出てきたほんの一瞬だけ。全国には何万と遺跡はあります。その中から独断と偏見で、「出土状態」を紹介していきます。なお専門家ではないので悪しからず。
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