出土状態の秘密

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旧石器時代 大阪府はさみ山遺跡

今から30年ほど前、楽天梨田監督の住宅予定地から旧石器時代の遺跡が発見された。

石器だけでなく、建物跡と思われる痕跡もみつかるという幸運に恵まれた。

径6メートル、深さ20センチほどの浅い円形に掘られて、周囲に径10センチほどの穴が掘られていた。

穴は斜めに掘られており、木を差し込むと上部中央で重なるようになっていた。

穴は浅く掘られ、縄文時代のような柱を立てる感覚ではなかったようだ。

たてる状況を復原した絵も描かれた。


昔佐原真という人が、絵を描く達人であったと聞いたがこれも佐原さんだろうか?

それにしても、木を一本ずつ安定することのない浅く掘った穴に立て、最後に中央で束ねる作業を本当にしていたのかどうか?

言うのは簡単だが、実際やってみると難しい。

浅い穴に、ななめに木を立てても木は倒れてしまう。
それをどうクリアしたか?

旧石器時代の建築技術、甘く見てはいけない。

ちなみに遺跡は、梨田家の設計変更により、土中に埋まった状態で保存されているらしい。

建物跡のみつかったあたりは「はさみ山遺跡梨田地点」と名付けられている。

旧石器人もこの扱いに感謝しているのか、梨田さんは引退した後も野球界で仕事を続けている。




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オホーツク文化 骨塚

オホーツク文化の住居からは、動物の骨を集積した「骨塚」と呼ばれるものがみつかる。

トコロチャシ遺跡の骨塚

栄浦第二遺跡の骨塚


復元された骨塚


写真や図面を観察すると、頭骨を丁寧に並べているように見える。
動物はクマ、シカ、キツネなど陸上で生息する動物のほか、トドやクジラなど海獣の頭骨もあるらしい。
家畜として飼育していたと思われる、ブタ・犬の骨はあまり多くないとのこと。
頭骨を丁寧に並べているので、骨を集める趣味があったわけではなさそうだ。

丁寧に扱うという点から、食糧の対象とは違う、別の考えがあったようだが、それは何か?
縄文時代の配石遺構や石棒と同じく、世界観を読み解くのは難しい。
住居にある点から、昔の家によくあった神棚、仏壇などの感覚で存在したのだろうか。

骨は肉のついた状態で置いたのではなく、一度地中に埋め、骨だけになったら掘り返して家に搬入したと考えるのが自然だろう。
衛生的にも悪いし…。

縄文時代にも、遺体を埋めて、骨のみとなった時期に掘り返し再び埋葬した二次埋葬がある。
骨塚はそれに相当する行為である。
単なる食糧の対象と考えていたらここまではやらない。

アイヌ民族の送りのごとく、動物に対し尊崇の気持ちが表れている。

ちなみに、この骨塚は住居が使われている間につくられたのか、それとも廃絶時につくられたのか?
ちょっとわからない。

それによって、彼等の世界観の解釈もかわるだろう。



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古墳時代 岩手県上餅田遺跡

ここから検出されている住居のプランは、方形、四点の柱穴、かまど。
古墳時代にはよく見られる例なのでそう珍しくはない。




発掘調査の範囲からは、古墳時代から平安時代にいたる竪穴住居跡が見つかっている。
古墳時代 半弧状に配置。
奈良時代1 北に密集。みんな何となく同じ方向を向いている。
奈良時代2と平安時代 南へ移動。



不思議なことに全く重複しているように見えない。
他の同時代の遺跡では、重複例はいくつも見ているので、この光景は不気味に映ってしまう。
完全に埋没していなかったから、こうした奇跡がおきたのだろうか?

それとも重複は、避けなければならないタブーだったのだろうか?

三河地方のとある地域では、死人の出た家のそばに家を作らないという習慣があった、と聞いたことがある。

その習慣は古墳時代までさかのぼる、わけないか…。



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縄文時代 敷石建物跡

埼玉県樋下遺跡


長野県平石遺跡


縄文時代の関東・中部地方の遺跡から、敷石住居と呼ばれている建物跡が多数見つかっている。
名前の通り住居の床に石を敷き詰めている。
初めに柄鏡の縦穴を掘り、床と柄の部分には平べったい石を敷き詰めたようだ。
中央には炉がもうけられており、これは縄文時代の住居と同じである。
柱穴は竪穴の外に掘られている。

今まで見てきた竪穴住居の柱穴は、内部から見つかる場合が多いので、屋根など上に覆いかぶさっていたものが、一般の住居とは違っていた可能性もあるだろう。

ちなみに柄鏡の竪穴は、北海道の続縄文時代にも見られた。
柄の内部に柱穴が見つかっているが、敷石住居の場合は外側から見つかっている。
竪穴のなかに柱をたてるのがタブーだったのだろうか?

樋下遺跡では、炉附近からは石棒が見つかっている。
平石遺跡の炉付近からも動物を描いた土器が検出されている。
石棒は、石で作られた狩猟具とは違う道具。
絵の描かれた土器は、今まで見たことはあるけれども数は少ない。
煮炊きに使う土器といっしょにみていいのだろうか?

そもそもこの住居をつくった人達は何を考えて、行動したのだろうか?

完成する間に大きめの石を多く集めなければならないし、柱穴の位置や石の配置など、建物のつくりも特殊だから、それを建てるための知識を持った人間は現場に必要だろう。

一人でなく、複数の人が同じ考えをもって行動していた…
その原動力はなんだったかというと、解釈は難しいと思う。

神殿か?偉い人の住居か?

炉の付近で、石棒や特殊な土器が出土しているいるので、火にかかわる祭りでもやっていたんじゃないの、とも思えるが…

考古学者が結論を出せていない状態のなか、みたこともない事例が姿を現した。
2014年東京都緑川東遺跡で、床下から石棒4本検出した敷石住居が見つかった。


人によっては、炉はないので住居じゃないよという。
前代未聞の発見のため、考古学者の間で解釈が割れているらしい。
でも、敷石住居の特殊性を改めて認識させるだけの効果はあった。
石棒は、石を細長い状態に加工し、全体を磨き上げてつくる。
膨大な労力を必要とするものをなぜ、4本まとめて住居ともども廃棄することになったのか?

特殊な建物から見つかっているから、実はここが石棒を保管する場所だったと考えたらだめだろうか?

獅子舞は普段別の場所に保管し、祭りの時に表に登場し大活躍する。



この建物は建築当初から石棒など祭りの道具の保管場所という機能を考えていたから、炉を省略した…

でも裏付け作業はヤラナイ。メンドイ。

ちなみに、敷石住居ばかり見つかっている遺跡もある。

特殊特殊といっても、どこまで特殊だったのか?
これはもう遺跡を残した人にしかわからない。


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古墳時代 岩手県膳勝遺跡

遺跡からは竪穴建物跡が50軒以上もみつかっている。


そのうちの1軒からは土師器とよばれる土器が大量に見つかった。


かまどの右側から大量に見つかっている場合が多いとのことで、厨房的な場所だったのではと考えている人もいる。

かまど附近なので、食器や料理器具は手に届くところにあったと考えるのは自然だと思う。

でも上からグシャっとつぶされたような状態で見つかったのは何を物語っているのだろう?

床面から土器がつぶれた状態でみつかった住居は、多かったらしい。

集落全体で、生活必需品を残して家を去らなければならない事情でもあったのだろうか?


つぎのこの住居。


規模はわからないが大型住居と呼ばれている。

ここからは、「圭頭太刀柄頭」と呼ばれる金属製品が見つかっている。


詳しくは知らないが、聖徳太子の着用していた刀にもついていたらしい。

この「大型住居」に居住していたのは何者か?

中央政府とのつながりの強いものがなぜここから見つかったか?

柄頭の先についていた刀はどこに行ったのか?

…もしくは、ゴミ扱いされてこの住居跡にポイ捨てされたか?

とりあえず、様々な問題を提起してくれる遺跡である。


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続縄文時代 北海道旧豊平河畔遺跡

本土では弥生時代と呼ばれていたころ、北海道では続縄文時代と呼ばれる時代が続いたと習った人は多いと思う。

いや、むしろ覚えていない人の方が多いか?

続縄文時代の人は、縄文時代と同じく竪穴の住居に住んでいた。

ちょっと違うのは柄鏡のように、細長く伸びた掘り込みがある点だろう。


この掘り込みの端にも柱穴は見つかっているので、上部に屋根のような構造物があったらしい。

細長い掘り込みのある住居は道東でも確認されている。

道東 尾河遺跡


ちなみに…

実は続縄文時代の住居跡はあまり見つかっていない。

見つかるのは結構めずらしい。

補足すると、その前の縄文時代の終わり頃の住居もあまりみつかっていない。

その反面、墓はたくさん見つかっている。

なぜだろうか?

人によっては、季節的に移動を基本とする生活を送っており、住居は掘り込みのないテント生活だった。

だから掘り込みは確認されないのは当然、と説明する。

でも遺跡から見つかっている動物の骨から、一年を通して定住していたのではないかと考える人もいる。

果たして、今世紀中に結論は出るだろうか?



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室町時代・江戸時代 福岡県小倉城

サクラのきれいな小倉城。


いったいいつからこの地にあるのか?


よくわかっていなかった。


1990年駐車場工事のため、その一帯を発掘調査したところ、室町時代から近世に至るまでの築城の歴史を追うことができた、とのことである。




中世の石垣。


祭りをやった跡、だそうです。



毛利勝信さんの時期につくられた石垣

今残っている石垣とあまりかわらない。


厨房跡



厨房跡からみつかったかまど


門の跡だそうです。


小倉城は中世より立地していたこと、新しく城を作る前に、先の建物を破壊し埋めていたことなどがわかった。


石垣や厨房のかまどは破壊することなく埋めただけで、処理が終わっているのには驚いた。


国は違うけれど、イタリア・ローマの土中に、古代ローマの街が建物ごと残っているのをテレビで見たことがある。


なぜ中途半端な破壊で済ませて土中に埋めたのだろうか?


破壊したらがれきを運搬するという作業を必要とする。


もしかしたら、人件費をケチったか?



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古墳時代 岩手県中半入遺跡

発掘当時中は毎日が驚きの連続だったという。

大阪産の須恵器、琥珀やガラスでつくられた玉、大陸から来てまもない馬の歯など、遠方からもたらされたとしか考えられないものが多く出土した。


関係者を最も驚かせたのが、謎の濠の跡。

 
確認されているのをつなぎあわせると、推定35メートルの方形区画となるという。

内部の建物配置は不明だが…

似たような濠の跡は群馬県三ツ寺でも確認されており、その内側から大型の建物跡数軒検出された。

これは豪族の居館と考えられている。

この地域にも大型の古墳は分布しているので、彼らの居住区は、濠で囲まれていた特殊な建物であったことも考えられる。

といっても、部分的にしか調査されていないので、都合のいいところをつまみ食いした解釈でしかないのが実状。

全体を発掘したらどんな姿が現れるか?

もしかしたら古墳かもしれない可能性もあるが…

さて遺跡からは、中央の人にとっては懐かしいものもみつかっている。

黒曜石で製作された石器↓


遺跡全体では4000点も見つかっている。

スクレイパーとよばれているもので、動物の毛皮をなめすのに使割れたと考えられている。

中央に献上する毛皮をなめす工房でもあったのか?

少なくとも狩猟採集社会の人とは、異なる意識で石器を使われていたのだろう。

岩手県だけでなく、東北北部からは古墳時代になっても、石器は見つかっている。

古墳時代は鉄の時代であったというのはちょっと違う、という真実をこの遺跡は教えてくれる。




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縄文時代 千葉県宮内井戸作遺跡

この遺跡からは複数の大型建物跡が複数確認されている。

これは118号大型住居跡。

円周上に並んでいる柱穴もある。

おそらく建物の壁となっていたと思う。


でもその内側から、おびただしい量の柱穴跡が確認されており、素人目からはどれが主柱なのか、ちょっと判断は難しい状況にある。

よく観察すると、同じ場所に何本も重なって見つかっているような部分があるので、この柱穴跡が建物を支える主柱かな?と思える。

他に写真を見てわかるのは、右下に作られている「ハの字」型らしき出入り口があるくらいだろうか。

118号の壁に沿うように、焼土が広がっており、その中から土版が見つかっている。

↑黒い部分が焼土

↑土版


土版は今でも使用方法のわからない土偶と同じくらい謎の遺物である。

出土状態から、焼土とのかかわりは強いと判断できるけど、私にはますますその使用方法は理解できない。


118号以外にも大型の建物跡は見つかっている。

…というが、教えてもらわないと、素人はわからない。

まず、全体の写真を見て感じるのは、遺跡全面に掘られたおびただしい量の柱穴群である。

下の方に、若干明るく見える円形の広がりが見られる。

柱穴は円周上に並んでいるように見えるので、そこに建物があったらしいと考える根拠の一つにはなると思う。

 
 
竪穴の壁のたちあがりと、明るい土の広がり、円周上に並んだ柱穴の列という手がかりから、これは2軒の建物が重複しているとの可能性は指摘できる。

柱穴の配置だけ見ていたら見逃してしまうだろう。

こうした遺跡はほかでも見たことはあるけれども、ずーっと写真を見ていると、自然に目と頭が痛くなる。

重要な発見ではあるけれども、ここで紹介した3軒以外の建物の復元はかなり困難だろう。

なぜなら一つ一つの柱穴が、一体いつ掘られたのか?

それを判定する評価方法はいまだ確立していない。

というか、不可能に近い。

この遺跡からは竪穴の検出があったため、それに伴うと考えられる柱の推定はできる。

でも縄文時代の終わり頃になると、掘り込みの浅い建物跡や掘り込みの明確ではない建物跡が見られるようになる。

場合によっては、大量に柱穴のみ見つかる遺跡もある。

北海道のある遺跡からも、膨大な量の柱穴が確認された。

発掘を担当した人は、柱の位置や大きさ・深さなどから、組み合わせを検討して、4本の柱が四角に並んで配置していたと考え、それを報告書にも記載した。

担当した人は、一つの謎を解決したとさぞかし満足したに違いない。

しかし、彼の検討結果について評価した人は誰もいなかった。

理由は様々だろうが、遺跡がない以上追試することもできないからだろう。

柱穴一つ一つにも歴史はあるけれども、正当な評価を得たものはどれくらいあるのだろうか?


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オホーツク文化 香深井5遺跡

以前六角形の形状に掘られた住居跡を紹介した。

実は、方形に掘られた事例も多く見つかっている。



出土した土器の模様や形から見て、オホーツク文化の中でも古い時期に位置するらしい。

以前紹介した住居と違って、壁の端に溝は掘られていなかった。

中央には土間のようなものがある点は合致する。

教科書で一行しか紹介されないオホーツク文化だが、時期によって土器や住居に違いが見られる。

※下に行くに従い新しくなっていく。



多角形・ゆがんだ方形から、角の明確な多角形・丸みを帯びた多角形、最後は方形へと変化する。

最後の住居から出土する土器は、同時期道央・道南で見られる擦文文化の土器である。

住居にあるかまどは、内地の影響を受けた擦文文化の特徴のひとつである。

北海道道東部で花開いた異質の文化は、奥尻島まで行動範囲を広げたこともあったが、次第に内地の文化へと吸収されていった経過が住居の形からうかがえる。

でも、かれらはどこへ去っていたのか。

全く分かっていない。



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soraイメージ
注意!
非常にマニアックなブログです。
タモリ倶楽部でもやりません。
旧石器とか縄文など、教科書で習うけど、ほとんどの人は興味なく、聞き流すだけで終わると思います。遺跡に行っても、だいたいは看板があるだけ。古墳は草木が生い茂っている山にしか見えない。面白いのは、ものが出てきたほんの一瞬だけ。全国には何万と遺跡はあります。その中から独断と偏見で、「出土状態」を紹介していきます。なお専門家ではないので悪しからず。
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