出土状態の秘密

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古墳時代 岩手県上田蝦夷森古墳群

古墳からはカブトが見つかっている。

カブトを出土した古墳としては日本最北だという。

下の写真が出土状態。

右からカブト、銅製耳飾り、刀子、コハク原石、土師器甕

これらの副葬品は棺の南側に並んで見つかったそうで、被葬者は頭部を南側に向けられて埋葬されたと考えられている。







副葬品の配置は、当時の人の祭祀形態を示す貴重な情報源と聞いたことがある。

たしか石野博信さんだっただろうか?

特に、頭部に甕を置いているのは興味深い。

甕は7世紀のものらしいから、この古墳もその頃に築造されたものだろう。

被葬者の正体は永遠にわからないけれども、カブトを埋葬されている点から、すぐれた人脈をもった人物だったのだろう。

ちなみにこのカブト、「横矧板鋲留衝角付冑」というのが正式名称らしい。

やっぱり考古学の用語は難しい。




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古墳時代 岩手県角塚古墳

最北に位置する前方後円墳で、国指定史跡にもなった。


端からみたら変形の小山にしかみえないけれど、いざ形態確認のための塹壕をほってみたら、丸い川原石が葺かれていた。


これは葺石とか呼ばれているもので、前方後円墳の表面をびっしり敷き詰めるものある。

他にも、埴輪が数点検出されたようだ。






ところで、東北地方では福島・宮城・山形では4世紀以降も古墳は造営されている。

でも、岩手・秋田・岩手は、7世紀になるまで古墳は造営されないという現象が確認されている。

古墳不毛の地であった岩手県になぜ、盟主墳ともいわれる前方後円墳が築かれたのか?

これも、国指定となったポイントだが、築造された場所が岩手県であり、朝廷と蝦夷との関係はどうだったのか?

両方の勢力範囲を考える上で、重要な古墳である。

また、以前紹介した岩手県の古墳の内部構造は北部と南部で異なる事例も気になるところ。

先祖が蝦夷にかかわる自分にとって、気になる問題…。



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古墳時代 千葉県早野横穴

横穴墓とは給料斜面に横穴を掘り、そこに遺体を埋葬する古墳時代に流行した墓の一つである。



昔の教科書に、これと同類と思われる吉見百穴が掲載されているのを見かけたが、いまはあるだろうか?

遺跡のある多摩川や鶴見川の丘陵斜面にも群集して見つかっているらしい。

古墳の構築と比べれば、手間はかからないので、下の階層にいた人たちの墓かと思いきや、内部からは、中央の政府とかかわりの深い須恵器が検出されている。

墓道から見つかった須恵器




壁には人面や馬を描いた線刻画があり、被葬者は民間人と考えるには、否定的な材料がそろっている。


人面?


かつてここは武蔵国と呼ばれており、馬を飼育し朝廷に献上していたらしい。

線刻画は、武蔵国の産業を伝えているといえるかもしれない。

では被葬者は馬主か?

そこまで特定できる材料はそろっているとはいえない。



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古墳時代・奈良時代 岩手県高瀬T遺跡

いわゆる末期古墳と住居阿他が見つかっている。


円墳は、調査以前の開発などにより墳丘や墓穴は消滅した。


古墳の周りをめぐる濠は馬蹄形で、完全に周囲をかこんでいないタイプである。

2号墳の濠からは鉄器と土器が出土している。


土師器


2号墳から出土した須恵器

この遺跡の特徴は、古墳と住居の配置。

古墳と住居はそれぞれ離れた場所につくられるのが普通なのだが、なぜかここでは古墳のそばに奈良時代の竪穴住居跡が発見されている。

またほとんどの住居は焼却された跡があったという。

住居の主と古墳の被葬者はどのような関係があったか?

なぜ古墳の近くに家を構えることを決意したのか?

なぜ焼却されたのか?

附近から発見されている同時代の遺跡の状態と比較し、この遺跡の特殊性をすべてあぶりだす必要があるだろう。

争いの結果か、住居廃絶の痕跡か。

結論を出す前にやれることはまだあるはず。



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古墳時代 奈良県石上豊田群集墓

古墳は径10メートル前後の小型の円墳で横穴式の石室を埋葬施設としていた。

内部からは、くぎが検出されたため木棺で埋葬されたと推測されている。


木棺の周囲には石が並べられていた。

写真を確認すると、埋葬施設からは上下から壺型の土器が検出されているのがわかる。


どのような意味があったのか?

あきらかにすることは難しいけれども、今まで見てきた通り、古墳の内部からは完全な形で土器が検出されている。

埋葬施設から発見されているので、被葬者への副葬品とみていいと思う。

それ以外の、古墳の外から検出される土器は、「使い方は知らないが、まあ祭祀に使われたのでしょう」でだいたいケリがつく。

なんて楽な仕事なんだろう。



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古墳時代 岩手県長根古墳群

古墳群は尾根上の南斜面に円墳28基見つかっている。

墓穴から出土した刀は、墓穴の長軸と同じ方向に向けられていた。


遺体も同じ向きに葬られていたはずなので、刀は被葬者に沿うように副葬されたのだろう。

ちなみに、古墳時代末期東北地方の古墳に地域差は見られるようで、北部はここと同じく墓穴タイプだが、南部は川原石を積んだタイプに分けられるらしい。


他に副葬品として和同開珎など、中央政府に近いものや、北海道もしくはさらに北部の文化のものと思われる錫製の腕輪や、鋸歯状の紋様を施文された土器もみつかっている。



岩手は中央と北方文化が交錯する特殊な地域だった。

中央から独立していたのか、それとも従属していたのか?

阿部比羅夫とか坂上田村麻呂のえみし「討伐」を読んで育った者にとって、気になる存在である。

こうしたグレーゾーンに住む人たちの経験した日本の歴史は、侵略と発展が複雑に織り交ざったものだったに違いない。

ちょうどアイヌ文化のように。


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弥生時代 大阪府四條畷市雁屋遺跡

以前、福岡県の遺跡で木棺墓を紹介したが、近畿地方でも見つかっている。


しかしどうも、福岡県とは形態に違いが見られるようだ。

蓋をするところは同じ。

でも、近畿地方のは木に溝をつけて組み立てる方式。




一方、福岡のは墓穴の端に溝を掘り、木板を差し込んだタイプであった。

木棺墓のルーツは、縄文時代には無いので、大陸からきた文化として見られている(考古学者の見解)。

根は同じなのに、なぜ西に行くに従い、変わったのか。

近畿地方では、木棺に対する墓に対する考え方に変化が発生したのだろう。

組み立て式は、成型した木を組み立てて、内部に遺体を安置し、棺を墓穴に埋めるという順序を踏まなければならない。

だから、結構な手間がかかる。

なぜ棺に手間をかけるか?

被葬者が特別だからである。

木棺墓は、出土数は少ないので、想像をたくましくしたら、組み立て式の被葬者は、村の中でも高い地位にいた人物とみてもいいかもしれない。

福岡の木棺墓も数は少ないので、同じような人物像を描いてもよいという解釈を選択できる余地はある。

こうして木棺墓はえらい人間の墓という認識が生まれた。

ただし、木棺墓はムラでどんなポジションで、他の村人と比べて何が秀でていたのか?

弥生時代は階層社会と教えてもらったが、どんな階層構造だったのか、被葬者の身分を示すものは何なのか?

細かいことになると、わからないことは多くなる。

それを考えるのが考古学の醍醐味という人はいる。

実態のある結果を求められる理系の人からみたら、考古学はなんて楽な仕事だと思われるに違いない。


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擦文文化 北海道後藤遺跡こと元江別遺跡群

北海道にも古墳あり。

昭和初期、江別市付近で数十基の盛り土のある墓が発見された。

発見当時は、円形で墳丘の高さが1メートル、規模は4~6メートル、周囲に濠が掘られていた。

副葬品も残されており、蕨手刀、耳環、刀子などの金属品や勾玉が発見された。

また、濠からも土師器・須恵器・刀などが見つかった。

墳丘や副葬品の特徴は、東北地方において末期古墳と呼ばれるものと非常に類似しているため、北海道の古墳→「北海道式古墳」と呼ばれることもある。

末期古墳の一例


遺跡はその後忘れ去られたが、1980年再び発掘調査が行われた。

墳丘は削平されて確認できなかった。


墓穴を確認できたのは1基だけだったが、遺体を安置したと思える、中央部の側縁に幅数センチの落ち込みが確認され、木棺で葬られたと考えられているようである。

数奇の運命を経験した後藤遺跡は復元され、史跡へ指定される異例の大出世。

墳丘も復元された。


そしてこれが現在の姿↓


送電線の鉄塔の下にあるのが古墳群。

私が行ったときは草むらで、古墳見学どころではなかった。

いまでは古墳は狐の住み家になっているらしい。

過去と現代のコラボというか…

少なくとも、人をきてもらうとか、勉強してもらおうなどの配慮を意識した整備には見えなかった。

この保存方法に不満の方は文化庁に抗議を。


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平安時代 神奈川県西谷貝塚

6世紀に仏教が日本に伝来し、人々の生活にどのような影響を与えたか?

その後のことを説明したものは少ない。

仏教の教えにより、天皇・貴族・僧侶らの間で火葬がはじまり、それが全国に広まったとされる。

写真にある土器は、火葬した人骨を納めて埋めたもので、火葬藏骨器と呼んでいる人がいる。
 


骨を納めたあとは、土中に逆さにして埋め戻したようだ。

他の例として、土器に蓋をした事例もあるらしい。

土器を逆さにするのは縄文時代やオホーツク文化でも見かけたことがある。

こうした処置は、被葬者に対する処置であったのだろう。

詳細は不明だが。

副葬品として刀や銭が見つかることがある。

この埋葬文化は皇族・貴族・僧侶など高貴な人物に限られていたらしい。

古墳のあと、こうした墓へと変わっていたことはまず習わない。

身分の高い人の墓はなんとなくわかった。

では民間人が死んだらどう葬られたか?

…不思議なことに、下層にいた人々の墓はあまり発見されていない。
なぜだろう?



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弥生時代 福岡県吉武高木遺跡

以前、弥生時代の墓の一例として方形周溝墓を紹介した。

細かい話になるが、弥生時代の墓は方形周溝墓だけではない。

地方にもよるが数百年続いた弥生時代には、様々な形態の墓が発生している。

この遺跡では、甕を二つあわせた甕棺墓と木製の棺で葬られた木棺墓が見つかっている。

33m×37mの範囲から、甕棺墓34基、木棺墓4基が発見されている。

この遺跡を残した人はここを墓地と決めて、埋葬を行っていたようだ。

甕棺墓・木棺墓とも同じ方向に向けられて検出されているという。

被葬者への方位に対するこだわりは縄文時代にも見られる。

弥生時代の遺跡からは方向を統一した理由を教えてくれるものは、何も見つかっていない。

こういう事例はよく、彼らの「他界観が反映した事例」という便利な言葉で片付けられる。

実際そうした面もあったに違いない。

でも、なんだかスッキリしない人もいると思う。

甕棺墓が34基にたいし、木棺墓は4基のみという数の差も気になる。

甕棺墓より木棺墓の方が優位であった、甕棺墓は地元の人で木棺墓はよそから来た人など、これも解釈が割れそうな例である。

どちらの説が、実態に近いだろうか?

他の遺跡と比較していく必要があるだろう。

もしかしたら木棺の多い遺跡があるかもしれないし。

そもそも、この遺跡は全面的な発掘はやっていないのだから、掘っていないところから大量に木棺がでてくることも否定できない。

遺跡の調査面積は、全体の数十%行われて終わることがほとんどだから、統計的な結果は常に不安定だなあ、という目で見られる。

追記 
最近遺跡の詳細を紹介した本を見た。これは北にひろがる墓群で、南にも墓群があった。やはり、木棺墓の数は少ない。

木棺墓の特殊性は明らかだけれども、じゃあ誰が葬られたか?

全体の1割と残りの9割の違いの真相は、そう簡単に解ける問題ではない。


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注意!
非常にマニアックなブログです。
タモリ倶楽部でもやりません。
旧石器とか縄文など、教科書で習うけど、ほとんどの人は興味なく、聞き流すだけで終わると思います。遺跡に行っても、だいたいは看板があるだけ。古墳は草木が生い茂っている山にしか見えない。面白いのは、ものが出てきたほんの一瞬だけ。全国には何万と遺跡はあります。その中から独断と偏見で、「出土状態」を紹介していきます。なお専門家ではないので悪しからず。
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