出土状態の秘密

サブURL(このURLからもアクセスできます):http://nagoya.areablog.jp/a19380312

古墳時代・奈良時代 岩手県高瀬T遺跡

いわゆる末期古墳と住居阿他が見つかっている。


円墳は、調査以前の開発などにより墳丘や墓穴は消滅した。


古墳の周りをめぐる濠は馬蹄形で、完全に周囲をかこんでいないタイプである。

2号墳の濠からは鉄器と土器が出土している。


土師器


2号墳から出土した須恵器

この遺跡の特徴は、古墳と住居の配置。

古墳と住居はそれぞれ離れた場所につくられるのが普通なのだが、なぜかここでは古墳のそばに奈良時代の竪穴住居跡が発見されている。

またほとんどの住居は焼却された跡があったという。

住居の主と古墳の被葬者はどのような関係があったか?

なぜ古墳の近くに家を構えることを決意したのか?

なぜ焼却されたのか?

附近から発見されている同時代の遺跡の状態と比較し、この遺跡の特殊性をすべてあぶりだす必要があるだろう。

争いの結果か、住居廃絶の痕跡か。

結論を出す前にやれることはまだあるはず。




goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nagoya.areablog.jp/blog/1000234300/p11608051c.html
| コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

古墳時代 奈良県石上豊田群集墓

古墳は径10メートル前後の小型の円墳で横穴式の石室を埋葬施設としていた。

内部からは、くぎが検出されたため木棺で埋葬されたと推測されている。


木棺の周囲には石が並べられていた。

写真を確認すると、埋葬施設からは上下から壺型の土器が検出されているのがわかる。


どのような意味があったのか?

あきらかにすることは難しいけれども、今まで見てきた通り、古墳の内部からは完全な形で土器が検出されている。

埋葬施設から発見されているので、被葬者への副葬品とみていいと思う。

それ以外の、古墳の外から検出される土器は、「使い方は知らないが、まあ祭祀に使われたのでしょう」でだいたいケリがつく。

なんて楽な仕事なんだろう。



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nagoya.areablog.jp/blog/1000234300/p11592999c.html
| コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

古墳時代 岩手県長根古墳群

古墳群は尾根上の南斜面に円墳28基見つかっている。

墓穴から出土した刀は、墓穴の長軸と同じ方向に向けられていた。


遺体も同じ向きに葬られていたはずなので、刀は被葬者に沿うように副葬されたのだろう。

ちなみに、古墳時代末期東北地方の古墳に地域差は見られるようで、北部はここと同じく墓穴タイプだが、南部は川原石を積んだタイプに分けられるらしい。


他に副葬品として和同開珎など、中央政府に近いものや、北海道もしくはさらに北部の文化のものと思われる錫製の腕輪や、鋸歯状の紋様を施文された土器もみつかっている。



岩手は中央と北方文化が交錯する特殊な地域だった。

中央から独立していたのか、それとも従属していたのか?

阿部比羅夫とか坂上田村麻呂のえみし「討伐」を読んで育った者にとって、気になる存在である。

こうしたグレーゾーンに住む人たちの経験した日本の歴史は、侵略と発展が複雑に織り交ざったものだったに違いない。

ちょうどアイヌ文化のように。


goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nagoya.areablog.jp/blog/1000234300/p11592873c.html
| コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

弥生時代 大阪府四條畷市雁屋遺跡

以前、福岡県の遺跡で木棺墓を紹介したが、近畿地方でも見つかっている。


しかしどうも、福岡県とは形態に違いが見られるようだ。

蓋をするところは同じ。

でも、近畿地方のは木に溝をつけて組み立てる方式。




一方、福岡のは墓穴の端に溝を掘り、木板を差し込んだタイプであった。

木棺墓のルーツは、縄文時代には無いので、大陸からきた文化として見られている(考古学者の見解)。

根は同じなのに、なぜ西に行くに従い、変わったのか。

近畿地方では、木棺に対する墓に対する考え方に変化が発生したのだろう。

組み立て式は、成型した木を組み立てて、内部に遺体を安置し、棺を墓穴に埋めるという順序を踏まなければならない。

だから、結構な手間がかかる。

なぜ棺に手間をかけるか?

被葬者が特別だからである。

木棺墓は、出土数は少ないので、想像をたくましくしたら、組み立て式の被葬者は、村の中でも高い地位にいた人物とみてもいいかもしれない。

福岡の木棺墓も数は少ないので、同じような人物像を描いてもよいという解釈を選択できる余地はある。

こうして木棺墓はえらい人間の墓という認識が生まれた。

ただし、木棺墓はムラでどんなポジションで、他の村人と比べて何が秀でていたのか?

弥生時代は階層社会と教えてもらったが、どんな階層構造だったのか、被葬者の身分を示すものは何なのか?

細かいことになると、わからないことは多くなる。

それを考えるのが考古学の醍醐味という人はいる。

実態のある結果を求められる理系の人からみたら、考古学はなんて楽な仕事だと思われるに違いない。


goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nagoya.areablog.jp/blog/1000234300/p11592870c.html
| コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

擦文文化 北海道後藤遺跡こと元江別遺跡群

北海道にも古墳あり。

昭和初期、江別市付近で数十基の盛り土のある墓が発見された。

発見当時は、円形で墳丘の高さが1メートル、規模は4~6メートル、周囲に濠が掘られていた。

副葬品も残されており、蕨手刀、耳環、刀子などの金属品や勾玉が発見された。

また、濠からも土師器・須恵器・刀などが見つかった。

墳丘や副葬品の特徴は、東北地方において末期古墳と呼ばれるものと非常に類似しているため、北海道の古墳→「北海道式古墳」と呼ばれることもある。

末期古墳の一例


遺跡はその後忘れ去られたが、1980年再び発掘調査が行われた。

墳丘は削平されて確認できなかった。


墓穴を確認できたのは1基だけだったが、遺体を安置したと思える、中央部の側縁に幅数センチの落ち込みが確認され、木棺で葬られたと考えられているようである。

数奇の運命を経験した後藤遺跡は復元され、史跡へ指定される異例の大出世。

墳丘も復元された。


そしてこれが現在の姿↓


送電線の鉄塔の下にあるのが古墳群。

私が行ったときは草むらで、古墳見学どころではなかった。

いまでは古墳は狐の住み家になっているらしい。

過去と現代のコラボというか…

少なくとも、人をきてもらうとか、勉強してもらおうなどの配慮を意識した整備には見えなかった。

この保存方法に不満の方は文化庁に抗議を。


goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nagoya.areablog.jp/blog/1000234300/p11590414c.html
| コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

平安時代 神奈川県西谷貝塚

6世紀に仏教が日本に伝来し、人々の生活にどのような影響を与えたか?

その後のことを説明したものは少ない。

仏教の教えにより、天皇・貴族・僧侶らの間で火葬がはじまり、それが全国に広まったとされる。

写真にある土器は、火葬した人骨を納めて埋めたもので、火葬藏骨器と呼んでいる人がいる。
 


骨を納めたあとは、土中に逆さにして埋め戻したようだ。

他の例として、土器に蓋をした事例もあるらしい。

土器を逆さにするのは縄文時代やオホーツク文化でも見かけたことがある。

こうした処置は、被葬者に対する処置であったのだろう。

詳細は不明だが。

副葬品として刀や銭が見つかることがある。

この埋葬文化は皇族・貴族・僧侶など高貴な人物に限られていたらしい。

古墳のあと、こうした墓へと変わっていたことはまず習わない。

身分の高い人の墓はなんとなくわかった。

では民間人が死んだらどう葬られたか?

…不思議なことに、下層にいた人々の墓はあまり発見されていない。
なぜだろう?



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nagoya.areablog.jp/blog/1000234300/p11589653c.html
| コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

弥生時代 福岡県吉武高木遺跡

以前、弥生時代の墓の一例として方形周溝墓を紹介した。

細かい話になるが、弥生時代の墓は方形周溝墓だけではない。

地方にもよるが数百年続いた弥生時代には、様々な形態の墓が発生している。

この遺跡では、甕を二つあわせた甕棺墓と木製の棺で葬られた木棺墓が見つかっている。

33m×37mの範囲から、甕棺墓34基、木棺墓4基が発見されている。

この遺跡を残した人はここを墓地と決めて、埋葬を行っていたようだ。

甕棺墓・木棺墓とも同じ方向に向けられて検出されているという。

被葬者への方位に対するこだわりは縄文時代にも見られる。

弥生時代の遺跡からは方向を統一した理由を教えてくれるものは、何も見つかっていない。

こういう事例はよく、彼らの「他界観が反映した事例」という便利な言葉で片付けられる。

実際そうした面もあったに違いない。

でも、なんだかスッキリしない人もいると思う。

甕棺墓が34基にたいし、木棺墓は4基のみという数の差も気になる。

甕棺墓より木棺墓の方が優位であった、甕棺墓は地元の人で木棺墓はよそから来た人など、これも解釈が割れそうな例である。

どちらの説が、実態に近いだろうか?

他の遺跡と比較していく必要があるだろう。

もしかしたら木棺の多い遺跡があるかもしれないし。

そもそも、この遺跡は全面的な発掘はやっていないのだから、掘っていないところから大量に木棺がでてくることも否定できない。

遺跡の調査面積は、全体の数十%行われて終わることがほとんどだから、統計的な結果は常に不安定だなあ、という目で見られる。

追記 
最近遺跡の詳細を紹介した本を見た。これは北にひろがる墓群で、南にも墓群があった。やはり、木棺墓の数は少ない。

木棺墓の特殊性は明らかだけれども、じゃあ誰が葬られたか?

全体の1割と残りの9割の違いの真相は、そう簡単に解ける問題ではない。


goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nagoya.areablog.jp/blog/1000234300/p11589645c.html
| コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

縄文時代 大阪府日下貝塚

報告書を見ていないので詳細は分からないが、保存状態の良い人骨が多数見つかったらしい。


見づらくて申し訳ないが、人骨が環状に配置して埋葬されていた。


直径6.3mの円周上に7基確認されており、西側に女性3体、東側に男性3体。


頭は同じ方向↓に統一されていたとあるから、一体のみ↑に埋葬されていた者はないらしい。


この状況は、生前より埋葬場所を決めていた可能性が高い。


性別により東西を別けているのも同様、生前から決めていたことだろう。

 

一番の謎は、この7人の関係。


特殊な身分によるものか?それとも血縁関係にあるものか?


考古学では証明できない以上、DNA検査による分析しか道はなさそうだが。



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nagoya.areablog.jp/blog/1000234300/p11589639c.html
| コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

弥生時代 神奈川県 権田原遺跡

古墳時代には、特定の人のために、大きい古墳が作られたのはよく知られていると思う。

その前の弥生時代にも、大きい墓はつくられている。

ここで紹介するのは方形周溝墓と考古学界で呼ばれている墓。

土を方形に盛って造られた墳丘に遺体を葬り、その周囲に方形の溝をめぐらせたもの。



この遺跡では密集して見つかっているが、重複してつくられておらず、構築場所に気をつかっていた様子がうかがえる。

写真を見る限り高さの墳丘は見られないが、当時は墳丘があったので、重複は防げたのだろう。溝からは、後の古墳と同様、土器が見つかっている。


見つかった土器の一部は首の幅を狭くしてつくられたつぼ。


食べ物を煮炊きしたり、貯蔵したりする土器とは違うので、それ以外の用途、被葬者の葬送儀礼のための土器との見方もできそう。

この溝からは、土器棺と呼ばれている墓も見つかっている。


溝は、外部との世界を区画する性格だけでなく、葬送儀礼に使用する土器を置く空間でもあり、時に人を埋葬するところでもあったようだ。

墳丘に葬られた人と、土器棺に葬られた人との間にどのような関係があったか。

興味深い問題ではあるけれども、百人百様の解釈はでるだろうし、DNA検査でもしない限り、消去法で解釈を消していくこともできない。


横浜市歴史博物館常設展示案内 1995



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nagoya.areablog.jp/blog/1000234300/p11584580c.html
| コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

旧石器時代 北海道湯の里4遺跡

旧石器時代の遺跡から、墓を確認できた例は非常に少ない。
この遺跡の発見例も、発掘調査に携わった人の注意がなかったら見逃していたかもしれない。

墓穴の壁は見つからなかったようだ。
おそらく、円形のラインを引いた場所が墓と考えられているエリアだと思う。

発見の経緯は次の通りである。
発掘中、石器4点が検出されたので、その部分を残し、掘り進めたら赤い土が出てきた。
そこから穴の開いた装飾品と思われる石製品が出土した。


赤い土は楕円形に広がっており、人間と思われる脂肪酸もここから検出したため、墓と推定されたらしい。
遺体に赤いものを散布する例は縄文時代の墓にみられる特徴である。
墓とする根拠として、調査員の頭の片隅に縄文時代の事例があったと想像する。

柏木B遺跡


柏戸所貝塚


ただし、縄文時代の墓すべてに赤い土が検出されるかというと、そうでもない。
むしろ赤い粉のない墓の方が多い傾向にある。
つまり旧石器時代においても、赤い粉を散布されなかった墓があってもおかしくない。
石器の出土状態を見ると、1か所に固まって見つかっている。
同時代の遺跡で、石器が同じように出土したのを見たことがある人はいないだろうか?
もしかしたら、それはそこに墓が掘られていたことを示唆していたのかもしれない。

ちなみに北海道で、赤い顔料を採掘できる山はこの遺跡よりも百キロほど北にある。
そこにたどりつくまでは幾多の野を超え、山を越え、谷を越えなければならない。


赤い顔料のもととなる鉱石は、非常にレアな鉱物なのだ。
それを散布された人はただ者ではないだろう。



goodポイント: 0ポイント

このポストをお気に入りに追加 0人がお気に入り登録中
このポストのURL http://nagoya.areablog.jp/blog/1000234300/p11584576c.html
| コメント( 0 ) | トラックバック( 0)
名前   削除用パス  
コメント
※入力可能文字数は1000文字です

このブログトップページへ
soraイメージ
注意!
非常にマニアックなブログです。
タモリ倶楽部でもやりません。
旧石器とか縄文など、教科書で習うけど、ほとんどの人は興味なく、聞き流すだけで終わると思います。遺跡に行っても、だいたいは看板があるだけ。古墳は草木が生い茂っている山にしか見えない。面白いのは、ものが出てきたほんの一瞬だけ。全国には何万と遺跡はあります。その中から独断と偏見で、「出土状態」を紹介していきます。なお専門家ではないので悪しからず。
前年  2017年 皆勤賞獲得月 翌年
前の年へ 2017年 次の年へ 前の月へ 5月 次の月へ
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31
今日 合計
ビュー 52 937
コメント 0 0
お気に入り 0 0

QRコード [使い方]

このブログに携帯でアクセス!

>>URLをメールで送信<<

お気に入りリスト

最新のコメント

おすすめリンク